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松虫通の文学碑(伊東静雄文学碑)
「徒然草」の著者吉田兼好は、阿倍野の合戦で戦死をとげた南北朝時代の武将北畠顕家の死を悲しみ、丸山古墳のふもとに移り住み、ここでわらを打ちむしろを織る日々を送ったと伝えられ、「兼好法師藁打石」
の石碑が海照山正圓寺の参道脇に残されています。
 聖天山公園南側には、徒然草の一節が刻まれた石碑とともに、兼好の文才に心酔していたといわれる江戸時代前期の俳人服部嵐雪(はっとつらんせつ)が詠んだ「兼好もむしろ織りけり花ざかり」の句碑もあります。
 昭和に活躍した詩人の伊東静雄は青春時代の一時期を共立通1丁目に住み、聖天山付近を好んで散策しましたが、そのゆかりの地“松虫通”に文学碑が建てられています。 
熊野街道
平安時代中期から盛んになった熊野詣。渡辺津(今の天神橋付近)から熊野本宮までの熊野街道は多くの参詣者で賑わいその様子は蟻の行列に例えられて「蟻の熊野詣」と言われたほどです。 ’
 街道には、参詣の途中に立ち寄り、参拝するお宮「王子」が数多くあり、「九十九王子」と称されていました。阿倍野元町の「阿倍王子神社」は「阿倍王子」の後身と考えられ、現存する数少ない王子社です。
 街道を行く人々の信仰を受け止めてきた貴重な証人「阿倍王子神社」」。
一度訪ねてみてはいかがでしょう。
阿部野神社と古戦場
南北朝時代、南朝方として建武の中興のとき活躍した北畠顕家。文武両道に秀でた武将で、後醍醐天皇の信頼も厚く、父の親房とともに奥羽平定にあたりました。
北朝軍の足利尊氏との戦いではめざましいはたらきで一時足利軍を追いつめましたが、連戦の末、最後は阿倍野の地で討ち死にしたと言われています。
弱冠21歳でした。
 北畠公園内には顕家の墓とされる「伝北畠顕家の墓」があり、また「阿部野神社」には北畠親房・顕家親子が祀られています。

陰陽師とは、中国伝来の陰陽五行説に基づき、天文・暦数・ト錘(ぼくぜい)などの知識を用いて、吉凶・禍福を占う陰陽道の術師で、安倍晴明が活躍した平安時代には、朝廷に陰陽寮が設けられ、朝廷の行事や政策の決定などに重用されたと言われている 安倍晴明は、安倍一族の子孫として延喜21年(921年)に現在の阿倍野元町で生まれたといわれている。幼少のころ京にわたり、陰陽道の大家である加茂忠行・保憲の親子を師として、その道を極め、五代の天皇(村上・冷泉・円融・花山・一条)に仕えた。 その優れた能力に、朝廷の信頼も厚く、宮中での重要な行事や政策の決定などは主に晴明が占い、その影響力は大きいものであったといわれている。
 晴明が亡くなったとされているのが寛弘2年(1005年)。死後も晴明は、平安時代後期に編纂された「大鏡」「今昔物語集」などのほか、江戸時代の浄瑠璃や文楽など、数々の物語に登場し、いずれも卓越した能力の持ち主として描かれている,花山天皇の退位を天変により知った話や藤原道長にかけられた呪誼を解き助けた話などがあるが、特に、晴明が安倍保名と白狐の間にできた子であるとする葛の葉伝説などは晴明の超人的な部分がより濃く強調された説話として見ることができるだろう。
 千年近い時を越え、再び注目を集める安倍晴明。
 安倍晴明を祀つた安倍晴明神社内には晴明の誕生地の碑のほか、産湯をつかつたとされる井戸の跡、葛之葉霊狐飛来像が残されている。
晴明ゆかりの社を訪れて、平安の世で活躍した陰陽師安倍晴明の魅力に思いを馳せてみるもよいのでは・・・

 



  
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